自己紹介

今回の記事をとにかく後に残せるような資料にしたい。

2014年9月17日水曜日

金学順さんの生い立ち 「従軍慰安婦」にされた少女たち/日本軍「慰安婦」にされた少女たち から

慰安婦問題では新聞記事ばかりが注目されていますが、
実際、そのころの日本では「従軍慰安婦」はどう語られていたのか、記載しました。
なんとも、朝日新聞が言っていた、強制性の問題ではない、という言葉が空々しく聞こえます。
さて、以下の文章でどれだけ「日本」が登場するのでしょう。

(追記)まだ書き写せていない状態ですが、本日
日本軍「慰安婦」にされた少女たち 2013年11月20日発行 が手に入りました。
元の文章から20年、当然、この下に書かれている金学順さんの証言も
大きく書き換えられています。
とはいえ、この文章では「 一九九一年一二月九日、YMCAアジア青少年センターでの講演内容」のはずですから、内容が変わるはずはないのですが。

非常に興味深いのですので、比較対象もやがて行います。

まずは1993年当時の文面をお読みください。

※ なお、文の最初に①などついていますが、これは、今後の比較用のため、私が書き足した
ものです。



1993年6月21日発行
「従軍慰安婦」にされた少女たち 石川 逸子 (著)
岩波ジュニア新書222 より
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8ページから

川瀬牧子の感想 「正しく伝えたいから」 ― 金学順さんのお話

① 「どうして日本政府は戦争が好きなんですか。今回も来てみたら海外に軍隊を派遣すると言ってるじゃありませんか。私は軍人を見ただけでもからだがふるえるんです。日の丸をみただけでもふるえがくる。日本にくるときに飛行機にのったのですが、ちょうど席が翼の近くでそこに赤い日の丸が見えて、見るだけでからだがふるえました。からだの力がぜんぶぬけました。私の敵は日本なのに、私に女を捨てさせたのは日本なのに、どうして私は日本の飛行機にのって日本に行かなければならないのか、と思いながら来たのです。だからお願いします。どうかもう戦争だけはしないで。過去にあったことを明らかにしてください」

② 一九九一年一二月九日、東京・水道橋にあるYMCAアジア青少年センターの会場につめかけた四五〇人の聴衆に、静かに証言された金学順(キムハクスン)さんは、最後をそうしめくくられた。

③ 金学順さんは前年六月、「従軍慰安婦なるものは民間業者がつれ歩いたもので、国はかかわりない」と国会で答弁した日本政府にいきどおり、<私が生きているかぎり、そういうことはいえないはず>と、名のり出られたかたである。

④ 日の丸を見ただけでからだがふるえるという金学順さんの生涯 ― その理由(わけ)を、在日同胞の招きで初日された学順さんは、つとめて冷静にそして毅然(きぜん)と語られた。

⑤ 学順さんが生まれたのは中国東北部吉林省。独立運動にかかわっていたお父さんが、一九一九年の三・一独立運動に参加して日本官憲に追われ、朝鮮にいられなくなったためである。そこでも独立運動をする人たちの仕事を手伝っていたお父さんだったが、学順さんが生まれて一〇〇日もたたないうちに、日本人に銃で撃たれて亡くなってしまう。

⑥ 乳のみ児をだいたお母さんは故郷へもどり、身内の人びとをたよって学順さんをなんとか育てていった。教会にかようお母さんについてよく教会に行ったけれど、教会をきらう日本の朝鮮総督府は、教会関係者をたくさん殺したりした。「でも母とくらしたあのころが、とても幸せで楽しかった」と学順さんは言われた。

⑦  十七歳のとき、日本の警官が部落の人と一緒にきて、「挺身隊に行けばお金がもうかるし、天皇陛下の命令だから行かなくてはいけない」といい、むりやり日本軍のトラックにのせられる。おなじ部落ののすこし年上の友人も連行されていて、どこへいくかわからないまま、トラックは走ってやがて平壌(ピョンヤン)に着いた。そこから軍人といっしょに汽車にのせられ、三、四日のったり降りたり、またトラックで運ばれて、着いてところは弾丸が飛んでくる危険な戦場にほど近い、まっ暗な中国人の家だった。

⑧ そしてその家で、軍服を着た日本人将校に学順さんは犯された。
 「抵抗するとけられて、別の部屋につれていかれました。布切れで仕切りをしただけの部屋でした。何もないその部屋で『服を脱げ』といわれました・・・・・・」

⑨ それからしばらく学順さんの沈黙がつづき、やがてうなだれて聞いている私の耳に、また語りだした学順さんの声が聞こえてきた。

⑩ 「恥ずかしいからこんなことはいうまいと思っていました。でも正しく伝えたいから・・・・・・。この話をしようとすると胸が痛みます。『服を脱げ』といわれてどうして脱げますか? 将校はおそってきて服を破りました。そして・・・・・・そのときのことをどういいあらわしたらいいかわかりません。女としてはじめてのことで・・・・・・、あの苦痛はほんとうに言葉ではいいあらわせません。あの将校にからだを踏みにじられて、私はもう娘ではないのだと思うと、悲しくてくやしくて・・・・・・」

⑪ となりの部屋で、すこし年上の友人もまた別の将校に犯されていた。夜明けがたようやく将校が去ったあと、その姉さんがやってきて「こんなところでどうやって生きていけるのか? 私たち死にましょう」といったけれど、「言葉ではいえても死ぬことはやさしいことではありません」と学順さんはいわれた。

⑫ 夜がすっかり明けると、他の部屋に三人の朝鮮の娘たちがいるとわかった。二二歳の「シズエ」さん、一九歳の「サダコ」「ミヤコ」さん。そこで獣のようにすごした。ごはんをくれれば食べる。服をくれれば着る。外に出るときは軍服を着、部屋では下着だけ、反抗すればたたかれる。「軍人が戦闘からもどってくると、一〇人でも二〇人でも受け入れるしかなかったので、その苦痛は言葉では表現できません」

⑬ 四カ月たったころ、たまたまある朝鮮兵に出会って、二人でいっしょに軍から脱け出し、中国各地を転々と逃亡しながら子どもを産み、上海(シャンハイ)で解放をむかえる。

⑭ それから学順さんの半生の苦労の連続となるのだが、会場からのいくつかの質問のなかで、学順さんがつぎのようにいわれたことに私は胸を刺された。

⑮ 「来るときは飛行機のなかで胸の痛む思いをして、タタミの部屋を見てまた胸を切り刻まれるような思いをしました。五十数年前に見たタタミの部屋とおなじだったからです」

⑯ すこし以前の日本の部屋には必ず敷かれていた畳表。その畳の部屋に、生涯忘れない屈辱の記憶をもちつづけている韓国の女性たちがいたのだった。そして同性でありながら将校たちと同民族である私には、学順さんの話を聞くまで、畳をそのような目で見ている人がいるなど夢にも思いおよばないことであった。

⑰ 私は敗戦時、一二歳で女学校一年生。病弱の母と二人で長野県の上諏訪に疎開していたが、もし私がとなりの国に生まれていたら、ぶじでありえただろうか。姉たちは、すこし年上の友人たちは。

⑱ 天皇の軍隊「皇軍(こうぐん)」によって、金学順さんのように「従軍慰安婦」にさせられた女性たちの大半は、朝鮮人であるという。わずかな海峡一つへだてたとなりに「日本」という国があったがために、たったいちどの人生を踏みにじられ、めちゃめちゃにされてしまった多くの女性たちがいたことを、千田夏光氏、金一勉(キムイルミヨン)氏の著書などで知りながらふかく心にかけないできた自分だった、とあらためて思う。

⑲ 金学順さんの証言のまえに、韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺身隊協議会)書記の金慧媛(キムヘウオン)さんが、
 「学順さんは日本にとって救いの人です。彼女は、人間は人間らしく生きるため過去を素直にあやまり、真の友好がはじまることを願って、その恥部をさらすために来られたのです」
といわれた言葉も心にのこった。

⑳ 先にはおなじく挺身隊協議会共同代表の尹貞玉(ユンジョンオク)さんが来日され、その話は私も聞きにいったのだが、尹さんは、男性が女性の人格を認めず、ものとか便所のように相手の人格を破壊することができるのは、男性の人格がすでに破壊されているからだ。といわれた。また、日本人女性は韓国人に対しては加害者だけれど、女性という天では被害者だ。「従軍慰安婦」でなかった日本の女性たちは、天皇のために喜んで死ぬ「天皇の赤子(せきし)」を産む「赤子生産器」にされたのだから、「両国の私たちは歴史に新しい章を開くために必要な経験をもっているのです」と語られた。
 尹貞玉さん、金慧媛さん、このようなかたたちのふかい支えと明晰な(めいせき)な歴史感のなかで、金学順さんもはじめて名のりでる勇気をもたれたのであろうと思い、かえりみて日本の女性である私は恥ずかしかった。

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こ内容は今回、2013年に発行された本との対比のため、
ホームページにも書いてあります。
http://asahikiji.webcrow.jp/warehouse/index.html

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