自己紹介

今回の記事をとにかく後に残せるような資料にしたい。

2014年9月24日水曜日

「恨」の半世紀 決意の訴え 1991年12月6日

慰安婦が日本政府を訴えた日の朝日新聞23面です。
今回、書き出した理由は、ここに金学順さんの生い立ちが書いてあったからです。

ほかの記述と比較してみましょう。

これは半年前の朝日新聞(の植村隆)の記事です。
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/1991812.html

これは1993年に発行された本からです。
http://asahishinbunkiji.blogspot.jp/2014/09/blog-post_17.html

※ とりあえずひどいのは1993年(この記事の2年後)の本のほうがよっぽど脚色されていることです。

また、植村隆の記事では

「女子挺身隊 の名で戦場に連行され (大阪版)」

と書かれていた内容が、わずか4か月後の同じ朝日新聞で

「平壌で、地区の世話役に「金になる仕事がある」と誘われ」

といきなり変わっているのは注目です。これでも誤報ではないのでしょうか?



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1991年(平成3年)12月6日 (夕刊) 23面

「恨」の半世紀 決意の訴え

 「どれだけたくさんの慰安婦が犠牲になったか。私の十七歳の青春を返して欲しい」。従軍慰安婦だった金学順(キム・ハクスン)さん(六七)はハンカチで涙をぬぐった。六日、日本政府を相手に提訴した韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」。忘れられた慰安婦、戦傷のいえぬ元軍属や何の補償もない元兵士。戦士通知さえこない太平洋戦争開戦から五十年、「セイセン(聖戦)」に巻き込まれ置き去りにされた原告たちの「恨」(ハン)はいまなお積み重なっている。

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元慰安婦提訴 

地裁入口で全員が黙とう

 原告団は午前十時、整然と並んで東京地裁へ。男性はほぼ全員が黒のネクタイ。女性は白いチマ・チョゴリ姿。地裁入口で黙とうした。涙を浮かべる原告もいる。
 提訴した後、地裁内で記者会見。原告の一人でもある「太平洋戦争犠牲者遺族会」の金鍾大(キム・チョンデ)会長は「自国民のみを手厚く援護してきた日本の身勝手さは、国際的見地から到底認められない」との声明文を示し、「われわれにとっては戦争は終わっていない」と声をはりあげた。

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「逃げたら死ぬぞ」そして、翌朝から

金学順さん「胸痛い、でも話す」

 金さんは六日朝、東京・西早稲田の宿舎で「畳を見てつらかった。植民地時代を思い出した」とやつれた表情で、ぽつりと語った。白いチマ・チョゴリ姿。「まだ韓国にはたくさんの慰安婦たちが黙ったままです。夫や子供がいる人はこんな体験を話せるわけはない」。「でも私は話します。胸が痛いけれど・・・・・・」と話を続けた。

 金さんは一九三九年春ごろ、平壌で、地区の世話役に「金になる仕事がある」と誘われ、平壌駅から日本の軍人たちと一緒に軍用列車に乗せられた。数えで十七歳だったという。着いたのは中国北部の集落で、「テッペキチン」という記憶がある。将校に「いうことを聞け、逃げたら死ぬぞ」と脅され、翌朝から軍人の相手をさせられた。

 金さんも含めて朝鮮人女性は五人。三百人ほどの部隊が近くにいたという。
 一ケ月半後、部隊と移動。金さんは胸を病み、監視が緩くなった。物売りの朝鮮人業者に「自分も朝鮮人だ。逃がしてほしい」と頼み、夜中に脱出した。

 二人は夫婦になり、戦後、上海からソウルへ戻った。しかし夫は酒を飲むと「お前は慰安所にいたじゃないか」と金さんを責めた。

 二人の子供は事故や病気で亡くなった。夫も朝鮮戦争に巻き込まれて死んだ。
 「子供が死んで、自分も死のうと思ったが死に切れなかった。だれにも過去を話せず、苦しんできた。私の不幸は慰安所から始まっている」と金さん。今は生活保護を受けながらソウルの貸間に住んでいる。

 昨年、日本政府が国会で「従軍慰安婦は民間業者がやったこと」と答弁したと聞いて、怒りがこみあげた。「なぜ、日本政府は責任を認めないのか」。今年夏、キリスト教の女性団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」を訪れ、体験を語った。

 金さんは「身も心もボロボロになった。お金をいくらもらっても仕方がない。日本人のために、数多くの朝鮮人女性が犠牲になったことを若い人たちに伝えたい」という。

 金さんは「身寄りもいないので、名前が出ても構わない」と本名を名乗った。残りの二人は、名前を公表していない。家族に話すことができないからだ。

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来日した原告12人の訴え
(金学順さんを除く、敬称略)
趙鍾萬(69) 軍属としてトラック島で建設作業。船が沈没して負傷
鄭琪永(71) 強制的に学徒入隊。内務班で、ほぼ毎日暴行をうけた
朴炳贊(68) 捕虜監視員。日本軍戦犯として5年服役。片目を失明
徐正福(71) 沖縄軍夫。班長から毎日殴られた。未払い給与1650円
李永桓(79) 軍属。船が爆撃を受け片腕を切断、衝撃で声にも障害
申成雨(71) 同上。佐世保などで土工労務。給料の大半は強制貯金
金鍾大(54) 父がパラオで戦死したが知らされず。母が行商で苦労
李種鎮(47) 父がマニラで戦死。貧しさの余り17歳の時に自殺未遂
韓文洙(49) 父のブラウン島玉砕が今夏判明した。遺骨捜索もない
金容琪(60) 兄はブラウン島で殴殺された情報も。今年死亡を確認
韓永龍(48) 父は終戦直後、浮島丸沈没で死亡。今年、証言で確認
呉壬順(69) 日本の花形ボクサーだった兄がビスマルク諸島で戦死

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